三国志の到来を告げたのは、張角の黄巾の乱でしょう。
張角の黄巾の乱では、特別なスローガンがあったことを説明してきました。何か大事業を行う際は、奇抜で大きな目標が重要なのでしょう。
そして、黄巾の乱の張角が、仙人のパワーを利用したことも記載していきます。大規模な反乱を起こすような人物には、摩訶不思議な出来事が付き物なのでしょう。
また、なぜ張角が後漢朝廷に対して、黄巾の乱を行えたかも書いていきます。張角が不思議なパワーを持っていただけでなく、後漢政府側の腐敗も、黄巾の乱の大きい原因だったのです。
他にも、張角の黄巾の乱後の賊の動きも、述べていきます。ひとつ大乱が発生すると、そこに便乗する悪も、出て来るものなのでしょう。
黄巾の乱の張角を詳しく解説していきます!
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目次
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張角は黄巾の乱でスローガンを掲げていました
三国志の黄巾の乱では、蒼天すでに死す黄天まさに立つべし歳は甲子に在り天下大吉が、張角のスローガンだったのです。
- 張角の黄巾の乱平定に乗り出した乱世の奸雄曹操
- 劉備も張角の黄巾の乱を平定するために後漢の鄒靖に味方しました
陰陽五行説の土徳を意味する黄天が、張角たちのことを意味しています。
後漢朝廷は火徳を掲げていたため、火に克つ土徳で、張角は黄巾の乱を成功させようとしました。
また、黄巾の乱のスローガンの甲子は、干支の最初であるため、張角の大事業がスタートする絶好のタイミングを表しているのです。
そして、張角は黄巾の反乱を行ったわけですが、天下を大吉にしようとしていました。張角が成功していたら、黄巾の乱の評価も、真逆だったのではないでしょうか。
張角は、信者と共に大きなスローガンを掲げ鼓舞し、黄巾の乱を巻き起こしました。
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張角の黄巾の乱平定に乗り出した乱世の奸雄曹操
三国志の黄巾の乱の張角は、超世の傑曹操からも危険視され、平定の軍勢を向けられていました。
張角の配下が、曹操陣営の皇甫嵩を包囲していた際に、皇甫嵩は黄巾賊が不用意に、草むらに陣取っていることを見抜いたのです。
皇甫嵩は上手く火計を用い、張角の部下を驚かせ、丁度到着した曹操と共に、黄巾党を撃破しました。
曹操は後に、青州の黄巾党の残党を糾合し、青州兵と名付ける事で味方に取り込んだのです。
曹操が天下の大部分を掌握出来たのは、青州兵への対応のような、敵を味方にするやり方にあるでしょう。
張角の部下は、後漢軍の皇甫嵩義真(こうほすうぎしん)を追い詰めましたが、草の罠に気付かず火攻めを受け、曹操孟徳(そうそうもうとく)からも攻撃されました。
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劉備も張角の黄巾の乱を平定するために後漢の鄒靖に味方しました
三国志の張角の黄巾の乱は、仁義と漢帝室再興を目指す劉備からも、攻撃の対象とされたのです。
劉備は、意気投合した張飛と関羽と共に、義兄弟となり、有名な桃園結義を行いました。
劉備が長い間小さい勢力でも、皆が付いて来てくれたのは、桃園の誓いに代表されるような、絆を重んじていたからでしょう。
鄒靖は、黄巾党が思いのほか大軍だったので、義勇軍を集めることにしました。
劉備と義兄弟の関羽張飛は、仁義を示すチャンスと考え、鄒靖の義勇軍に志願したのです。
関羽と張飛と劉備は、黄巾の乱が起きなければ、その辺の農民で終了していたかもしれません。
黄巾の乱で張角軍は、桃園の誓いの劉備玄徳(りゅうびげんとく)関羽張飛らの義勇軍とも、戦いました。
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荘子仙人な南華老仙から特別な書物を受け取った黄巾の乱の張角の医術
三国志の黄巾の乱の張角は、南華老仙から神秘的な書物を授かり、特殊な医術で信者を増やしました。
今の時代は非常に医術が発展しているので、そこまで医術の有難みが無いかもしれませんが、三國志の時代の優れた医術は、神の所業に見える人もいたのではないでしょうか。
そして張角は、于吉仙人からも、特別な書物である太平清領書を獲得したのです。
また張角は、道教も重んじていたため、道教の開祖老子のパワーも受け継いでいる、と言えるでしょう。
道教は戦よりも、余計なことをしないことを重視する考え方なので、張角は道教を独自解釈したのではないでしょうか。
張角が黄巾党の一大勢力を築き上げたのは、南華老仙と于吉のミステリアスな書物のおかげでしょう。
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黄巾の乱の張角の弟張梁は人公将軍
三国志の張角の黄巾の乱には、人公将軍の張梁も参加していました。
張梁は、張角が亡くなった後も黄巾の乱で、後漢軍に抵抗を続けたのです。
しかし、精神的な支柱を失った黄巾党の崩壊は早く、人公将軍の張梁も戦死してしまいました。
そして張角は、天公将軍と称し、もう一人の弟の張宝は地公将軍、と称していたのです。
特に地公将軍の張宝は、黄巾党らしく、妖術を巧みに操ったと言われています。
黄巾党だけでなく、三国志の後の英雄をもっと味方にしておけば、黄巾の乱が上手くいった可能性はあるでしょう。
黄巾賊の張梁(ちょうりょう)は、人公将軍を名乗り、張角と張宝と共に、後漢軍に激しく抵抗しました。
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なぜ張角は黄巾の乱を起こすことが出来たのでしょうか
三国志の張角の黄巾の乱は、後漢朝廷が官位をお金で販売したことが、要因とされています。
後漢朝廷は政治に失敗し、窮乏していたので、権威を販売することで乗り切ろうとしたのです。
後漢政府は、経済的には再生しましたが、実力の無い物が高官になったことで、大混乱しました。
そして、三國志を統一したのは司馬炎ですが、かつて売官した後漢の皇帝のようである、と批判されたことがあります。
すると司馬炎は、正直な部下の発言を称賛したのです。
やはり、中華を再統一した皇帝司馬炎と、後漢の売官皇帝では、格が違うのでしょう。
後漢朝廷が売官で疲弊していたので、張角は不思議なパワーで人心を捕え、黄巾の乱を発生させました。
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張角の黄巾の乱終結後も黒山賊張燕や白波賊韓暹が暴れていたのです
三国志の黄巾の乱の張角は、病死しましたが、白波賊や黒山賊が、反乱を行い続けました。
黒山賊の張燕は、何十万もの違法者をかき集め、四世三公の名門袁紹とも対立していたのです。
袁紹は、飛将呂布を味方としていたため、黒山賊張燕を攻撃させたところ、激しい突撃を連打で行い壊滅させました。
人中に呂布あり馬中の赤兎あり、という名言も、この時の呂布の活躍から生まれています。
また、白波賊韓暹は呂布に付いたこともありますが、賊の末路でいつの間にか最後を迎えたのです。
張角の黄巾の乱の継承者と言える、張燕(ちょうえん)の黒山賊と韓暹(かんせん)の白波賊も、三国志の英雄に制圧されていきました。
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まとめ:なぜ張角(ちょうかく)は書物とスローガンで黄巾の乱が起こせたのか
三國志の張角が、黄巾の乱を巻き起こした経緯を、わかりやすく解説してきました。把握しておくと、中国史の反乱の前兆も、見抜けるかもしれません。
そして張角が、土徳な黄天で、人心掌握していたことも説明してきました。五行説を理解しておくと、今の世の中が何の徳で、何で克てるかも、見えるのではないでしょうか。
また、張角の黄巾の乱が、三国志で有名な曹操と劉備から平定されたことも、記載してきました。大規模な反乱が起きたからこそ、劉備や曹操のような英雄が、飛躍出来たのでしょう。
張角の黄巾の乱は、どのような巨大な政府も、一人の不思議なパワーで揺らぎ得る事例、と言えるのではないでしょうか。