秦の始皇帝嬴政が、天下統一する際に立ちはだかった刺客、として有名な人物が、荊軻でしょう。
荊軻と高漸離は、傍若無人の故事成語でも知られる刺客でした。初めから二人で始皇帝暗殺を行っていたら、成功したのではないでしょうか。
そして、始皇帝暗殺をしくじった荊軻が、笑った理由も説明していきます。笑ったのは、荊軻の虚勢に過ぎないのでしょうか。
また刺客の荊軻が、どのようにして始皇帝嬴政に接近出来たかも、述べていきます。用心深い始皇帝に近付くのは、並のお土産では難しいでしょう。
他にも、荊軻のように始皇帝暗殺を実行した、張良も記載していきます。張良は前漢の三傑と称されていますが、祖国韓のことで嬴政を憎んでいました。
ちなみに、荊軻の読み方は、けいかです。
荊軻を詳しく解説していきます!
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目次
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荊軻がどんな人かというと傍らに人無き者のごとしで高漸離と共に人生を満喫していました
荊軻は、美しい楽器演奏で知られる高漸離と一緒に、傍若無人な振る舞いを行っていたのです。
ですので後に、秦の始皇帝嬴政を暗殺しようとする、大胆不敵な行動が、出来たのでしょう。
そして高漸離は、筑の達人だったため、始皇帝から近習として重用されたのです。
しかし高漸離は、始皇帝に最後を与えようとした荊軻と親しかったため、失明させられてしまいました。
また始皇帝は、高漸離の目が見えないので油断していたところ、楽器で暗殺されそうになり、高漸離も荊軻と同じように嬴政に最後を与えられたのです。
荊軻は、故事成語の傍若無人な傍らに人無き者のごとしで、筑演奏の名手だった高漸離(こうぜんり)と共に、評判でした。
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刺客の荊軻が笑った理由は初めから本気を出していれば始皇帝嬴政を暗殺可能だったからでしょう
荊軻は、始皇帝を確保し、太子丹と燕の利益を図らせようとする甘い見通しがあったため、結局は暗殺に失敗したのです。
そして始皇帝暗殺の際に、荊軻は鋭利なヒ首で刺す寸前までいき、嬴政を追いかけ回しました。
ですので、荊軻が始皇帝を捕えるという甘い考えでなければ、本当に嬴政を斬るというのは、可能だったのではないでしょうか。
また始皇帝は、荊軻の行いに激怒し、荊軻が最期を迎えてからも激しく斬り続けた、と伝わっています。
荊軻は、刺客として始皇帝に肉薄しましたが、燕と太子丹(たいしたん)に貢献する気持ちが大きくなり過ぎ、嬴政の暗殺に失敗し、死後も斬られ続ける末路となりました。
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太子丹は安易に刺客を利用し荊軻が始皇帝を暗殺し損ねたため燕王喜から最後を与えられたのです
荊軻を刺客として始皇帝を暗殺させようとしたのは、太子丹だったので、燕王喜は太子丹の命で、嬴政に許しを請いました。
燕王喜は、息子の命でしばらく生き永らえますが、結局秦の大将軍李信に攻撃され、燕と共に滅亡したのです。
そして燕王喜は、趙括が長平の戦いで秦の大将軍の白起に大敗北した趙を侮り、大軍を派遣したにも関わらず、廉頗に敗れたこともあります。
結局燕は、昭王が郭隗の先ず隗より始めよで、楽毅らの偉人を集めた際に、国力を使い切ったのではないでしょうか。
刺客の荊軻は、嬴政暗殺の一歩手前までいきましたが、最終的には失敗したため、依頼主の太子丹をも道連れにしてしまいました。
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燕の豊かな土地と始皇帝が処罰したがっている樊於期の首を渡すことで荊軻は嬴政に近寄ったのです
荊軻は、刺客の任務を果たすために、燕の中でも豊かな地域と嬴政から亡命していた樊於期の首を、始皇帝に献上しました。
そもそも太子丹は、樊於期が困窮して逃げ込んで来たので、首を取ることを躊躇していたのです。
そこで荊軻は、樊於期に始皇帝暗殺計画を打ち明け、首を獲得しました。
また太子丹は、樊於期を保護したり荊軻を刺客として始皇帝暗殺を狙ったりし、無理に強大な秦に対抗したせいで、自分の首を締めあげてしまったのです。
荊軻は、燕の豊かな領地と樊於期(はんおき)の首を出しに使って、始皇帝暗殺の使命を果たそうとしましたが、結局は太子丹に刺客失敗の責任を負わせてしまいました。
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秦の始皇帝の暗殺は刺客の荊軻と高漸離だけでなく前漢の三傑の張良も成功しなかったのです
荊軻は、刺客として後少しで、始皇帝を暗殺出来るところでしたが、張良も剛力の刺客に嬴政の暗殺を依頼していました。
張良は、祖先が韓王から重用され活躍していたのですが、始皇帝から韓が滅ぼされ恨みを抱いていたのです。
そして、前漢の三傑張良の怪力の刺客は、巡幸中の始皇帝の近くに鉄球を落としましたが、嬴政に最期は与えられませんでした。
始皇帝は軍事的に他国を制圧しただけでなく、暗殺をも上手く避けるパワーをも、有していたのでしょう。
荊軻と高漸離は、始皇帝に近付き後一歩で暗殺まで漕ぎ着け、前漢の三傑張良子房(ちょうりょうしぼう)も強力な刺客で、嬴政を暗殺寸前まで追い込みました。
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若い時に殺人を犯した秦舞陽を太子丹は評価していましたが荊軻は刺客として不適切だと見通していたのです
荊軻は始皇帝への刺客の役目を全うするために、秦舞陽ではない刺客の目星があったのですが、太子丹に急かされ、秦舞陽と共に秦に向かいました。
そして秦舞陽は、若い頃に人殺しをしており、周りの者から恐れられていたのですが、始皇帝を前にすると刺客の任務の重さに恐れおののいたのです。
しかも秦舞陽の恐れは、始皇帝の周りの者たちから怪しまれるほどで、荊軻が、嬴政の威光を畏怖しているのです、と取り成してもらわなければならないほどでした。
荊軻が、始皇帝を暗殺しようとした際に、秦舞陽(しんぶよう)は刺客の重大さから怯え出したのですが、荊軻は元々秦舞陽が偽物であることに気付いていたのです。
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田光は始皇帝の刺客として荊軻をおすすめしましたが太子丹から他言しないように注意されたので修養不足を自覚し自害しました
荊軻は、しばらくは高漸離と共に傍若無人な暮らしをしていたのですが、田光から、太子丹の刺客となることを薦められたのです。
そして太子丹は、念押しのために、田光に刺客の件を他言しないように述べたのですが、田光は能力不足を感じ自刃しました。
田光はそれほどまでに、太子丹の期待に応えよう、と思っていたのではないでしょうか。
また、太子丹の別の部下の鞠武は、田光と異なり、秦は富国強兵を達成しているので、燕が刃向かってはならない、と主張していたのです。
荊軻は、田光から太子丹の刺客を務める役割を持ち込まれましたが、田光は太子丹に疑心を抱かせてしまったと思い、責任を取るために自殺してしまいました。
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まとめ:刺客の荊軻(けいか)はどんな人?笑った理由と史記あらすじわかりやすく
荊軻がどのような経緯で刺客となり、最後に笑ったかを解説してきました。始皇帝の天下統一は、刺客から攻撃されながらも、完遂されたのです。
そして太子丹が、荊軻が刺客として失敗した責任を負わされたことも、説明してきました。どうせ斬られるなら、太子丹も荊軻と共に秦に乗り込んでいれば、上手くいく可能性がアップしたのではないでしょうか。
また太子丹と異なり荊軻は、秦舞陽の本質を見通していたことも、述べてきました。秦舞陽が少しでも始皇帝を攻めていれば、刺客としての結果が、変わったのではないでしょうか。
荊軻は、秦の始皇帝に肉薄した勇敢な刺客なので、史記に掲載されるのにふさわしい武将だったのです。