廉頗と三国志!藺相如関係、最後史実、れんぱ性格、将軍李牧も解説

三国志の五虎大将軍の黄忠は、年齢で侮られた際に、廉頗を持ち出して気迫を示しました。

趙には名将藺相如もおり、廉頗と共に秦からも畏怖されていたのです。しかし廉頗は、藺相如を低評価しており、口達者なだけだと見なしていました。

そして廉頗は長平の戦いで、秦に軍勢を疲れさせる良策を行ったのです。長い時間をかけて廉頗は、秦に勝とうとしましたが、果たして趙王の理解は得られたのでしょうか。

また燕王が、趙に往年の強さは無いと判断し攻撃してきたので、廉頗は迎え撃ちました。燕王喜は、趙の何倍もの大軍を繰り出して来たと言われていますが、廉頗はどう対応したのでしょうか。

廉頗と三国志を詳しく解説していきます!

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藺相如と廉頗は刎頸の交わりな関係で強大な秦に対抗したのです

廉頗は有能な将軍だったため、藺相如が将軍としてではなく弁舌で出世したことに、不満を感じていました。

藺相如は廉頗と争わないように注意しており、廉頗が見えると、隠れるほどだったのです。

とうとう藺相如の部下も、藺相如を批判し出し、臆病過ぎて情けないと述べました。

すると藺相如は、自分は廉頗を恐れているのではなく、廉頗と争って秦が攻め込んで来ることを危惧しているのだ、と語ったのです。

商鞅の法治主義で大国化した秦と勝負出来たのは、藺相如の知略と廉頗の武力があったからでしょう。

廉頗は、将軍としての能力で藺相如(りんしょうじょ)を誤解していましたが、藺相如は秦に付け込ませないために争いを避け、後に廉頗からも理解も得られ刎頸の交わり関係となりました。

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大飯食らいで尊大で豪傑な性格なのが廉頗将軍でしょう

廉頗は、非常に良く食べるだけでなく豪気な親分肌な性格の武将、ではないでしょうか。

もう一度趙で将軍になりたいと願った際に、たっぷりのご飯と肉を食べて見せたことが、廉頗の性格を示しています。

そして、藺相如の弁舌力に嫉妬し、侮辱したくなったのも、豪胆な性格の表れと言えるでしょう。

藺相如の心が狭かったら、廉頗とバトルし、史実より早く趙が滅亡していたかもしれません。

また、政敵郭開や秦の宰相范雎の策略に抵抗出来なかったのは、廉頗が策士ではなく真正面から戦いたがる将軍、であることも示しているのではないでしょうか。

廉頗将軍は、ご飯が大好きで豪快さも有した性格でしたが、真っ向勝負を好み策略に対策出来ない弱点も秘めていました。

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長平の戦いで秦の軍事力を警戒し持久戦を行った廉頗将軍

廉頗は、王齕が手強いと判断し疲弊させる作戦を行い、段々と秦軍を追い詰めていきました。

何年も持久戦が続いたため、秦の宰相范雎も心理的に追い込まれ、廉頗を更迭させる策を展開したのです。

そして范雎は、趙の孝成王に廉頗が大軍を擁しながら攻撃しないのは、廉頗に問題があるからと思わせることに成功しました。

また秦の昭襄王に、遠交近攻策を薦めて重用されたのが范雎なので、廉頗解任もお手の物だったのでしょう。

趙側に、廉頗を操れたり范雎に比肩したりするような軍師がいなかったことも、長平の戦いの大敗の原因ではないでしょうか。

廉頗将軍は、強力な秦軍に勝利するために、長平の戦いで長期戦を展開しましたが、宰相范雎(はんしょ)の策には対処出来ず更迭されました。

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燕王喜は長平の戦いで弱体化した趙を大軍で攻撃しましたが廉頗に大敗したのです

廉頗は、長平の戦いでは更迭されてしまったのですが、燕の栗腹に大勝しました。

そもそも戦の前は、燕が趙にお祝いを述べに来ていたほどの良好な関係だったのですが、栗腹は趙の国情から邪な考えを主張したのです。

趙は長平の戦いで、大将軍白起に大軍を生き埋めにされたため、使える軍事力がかなり減退していると栗腹は述べました。

確かに趙は弱くなっていたのですが、燕は更に弱い国だったので、結局廉頗が勝利し城もあげる羽目になったのです。

燕はかつては楽毅大将軍がおり、盛況を極めていましたが、その反動なのかかなり弱くなっていたのでしょう。

廉頗将軍は、燕王喜と栗腹(りつふく)の裏切りの大軍に勝ち、趙の信義と強さを天下に示しました。

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三国志の劉備の部下の五虎大将軍黄忠は廉頗が高齢でも活躍していたと主張していたのです

三国志の黄忠は、年齢で侮られた際に、春秋戦国時代に廉頗が高齢でも将軍として出陣していたことを、引き合いに出していました。

劉備の義兄弟の関羽は、武神なほどの勇猛さを誇っていましたが、黄忠に一騎打ちで負けそうになったこともあるのです。

そして、超世の傑曹操と劉備の定軍山の戦いでは、軍師法正の指示を上手く活かし、黄忠は夏侯淵を打ち取りました。

しかし夷陵の戦いで黄忠は、再度高齢を非難されたので、無理に出陣し関羽の赤兎馬を奪った馬忠に、最後を送られたのです。

廉頗は、三国志の五虎大将軍の黄忠漢升(こうちゅうかんしょう)からも高評価されており、黄忠は廉頗のように定軍山の戦いで大活躍し、主君劉備の漢中王即位に貢献しました。

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郭開は廉頗を趙に戻れないようにするために趙の悼襄王に不健康だと思わせ最後に追い詰めたのです

廉頗は、亡命している内に趙が恋しくなり、趙に帰ろうとしましたが、政敵郭開に妨害されました。

そもそも趙の使者に廉頗は、大量のご飯と肉を食べる姿と馬に乗る姿を見せ、将軍にもう一度なれることを立証していたのです。

ですが郭開は、廉頗が何度も下半身の不健康が発生した、と悼襄王に報告しました。

また郭開は、廉頗だけでなく趙の名将李牧にも、妨害工作を行い、李牧は結局殺されたのです。

趙は長平の戦いと同様に、内部の問題で、秦と戦う前に崩壊していきました。

廉頗将軍は、たくさんのご飯と肉を豪快に食べ、乗馬も巧みにこなしましたが、郭開(かくかい)に邪魔されたため趙に帰れなかったのです。

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悼襄王から再度更迭された廉頗は怒って楽毅の親戚の楽乗を攻めたのです

廉頗は、悼襄王と不和だったため、長平の戦いと同じように、いつの間にか解任されました。

しかし今回の廉頗は、後任の楽乗を攻撃し、不満をあらわにしたのです。

そして魏に鞍替えした廉頗は、最後を迎えずに済みましたが、結局趙の将軍であると見なされあまり信頼されませんでした。

また楽毅の一族の楽乗も、廉頗との引継ぎ失敗により、趙から逃亡したのです。

ちなみに楽毅の時代には、秦以外の国も合従すれば、秦に対抗し得るほど国力があったので、蘇秦のような縦横家が幅を利かせていました。

廉頗将軍は、長平の戦いの際と同様に、趙王から信任されず更迭させられたため、楽乗(がくじょう)を攻撃し不快感を表したのです。

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まとめ:史実の廉頗(れんぱ)将軍と三国志と藺相如関係と性格最後

史実で廉頗が、どのような用兵を行い、誰が最期に追い詰めたかを解説してきました。廉頗に優秀な策士がいれば、范雎や郭開の策を論破することも出来たのではないでしょうか。

そして廉頗が、たくさんの肉とご飯で活力を獲得し、強気な性格だったことも説明してきました。

将軍であるだけでなら、この性格で充分と言えますが、春秋戦国時代の謀略に対抗するには弱い部分もあったのでしょう。

また、三国志の五虎大将軍黄忠が、廉頗と似ていたことも述べてきました。高齢になると円熟味が増すので、若い頃よりも実力を発揮し易い武将も多いのでしょう。

廉頗は、長平の戦いでも良い作戦を講じていながら、名王に恵まれなかった悲劇の将軍ではないでしょうか。

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