三国志の劉備のように、仁を重視し謙虚だったのが、戦国四君の信陵君魏無忌でしょう。
信陵君の人となりは、あまりにも優れていたため、魏王から怖がられていたのです。仁な信陵君では、兄の安釐王に取って代わることは、出来なかったのでしょう。
そして、秦から追い詰められた安釐王から要請され、信陵君が合従軍を率いたことも、説明していきます。やっと兄の魏王は、信陵君のことを分かってくれたのでしょうか。
また、前漢の初代皇帝劉邦も、信陵君を敬慕していたのです。信陵君がもっと頑張っていれば、劉邦の代わりに皇帝となる道も、存在していたのではないでしょうか。
信陵君と三國志を詳しく解説していきます!
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目次
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安釐王に畏怖されるほど信陵君の人となりは仁愛であり食客に謙虚に接していたのです
信陵君は、思いやりと謙遜で食客を厚遇していたので、安釐王から警戒されていました。
そしてある日、趙から狼煙が上がったため、安釐王は趙からの攻撃だと思ったのです。
ですが信陵君には、有能な食客がいたので、趙王の狩りに過ぎないと分かっていました。
安釐王は、自分が知らないことを信陵君があまりにも把握していたため、恐れて疎んじるようになったのです。
そして、安釐王が寵愛していた如姫は、信陵君に父の仇討ちをしてもらっていました。
如姫は、魏王すらしてくれなかったことを信陵君が成し遂げたので、いつか恩返しをと考えてもいたのです。
信陵君魏無忌は、人となりが仁に満ち食客を大事にしていたので、安釐王(あんきおう)から才能を危惧され敬遠されてしまいました。
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侯嬴は信陵君の器量を高めさせるだけでなく戦国四君の平原君も助けたのです
信陵君の食客の侯嬴は、ただの門番ではなく賢者だったので、秦から囲まれた平原君も救援出来ました。
そもそも侯嬴が、門番をしていた際に、信陵君からの何度も採用してもらえそうになりましたが、断っていたのです。
しかし実は、信陵君にわざと失礼な対応をすることで、侯嬴は、信陵君がどれくらい器が大きいかを周りに示させていました。
そして白起に長平の戦いで大敗し、窮地に陥っていた平原君を、魏の将軍晋鄙に最後を与えてまで援助する策を考えたのも、侯嬴だったのです。
信陵君魏無忌は、門番の中から見出した食客の侯嬴(こうえい)から、懐の深さを高めてもらえただけでなく、平原君を救う秘策も伝授されました。
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安釐王から請われて合従軍を統率した信陵君魏無忌は秦を函谷関に閉じ込めたのです
信陵君は、安釐王からの処罰を恐れて趙に留まっていたのですが、魏を助けなければ、自分の立場も危ないと気付きました。
そして安釐王は、信陵君の才覚を警戒しつつも、秦に対抗するには信陵君の力を使うしかない、と考えていたのです。
秦の強大化に怯える諸国を合従させ、秦を攻めた信陵君は、皆の念願の勝利を天下に示しました。
しかし、秦にまで勝った信陵君の名声は、再び安釐王を不安にさせてしまい、しばらくすると再度遠ざけられたのです。
信陵君魏無忌は、趙に滞在し災いを避けていたのですが、安釐王を助けなければ地位が危ういと感じ、合従軍で秦に勝ちましたが、再び魏王から畏怖され疎んじられました。
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戦国四君の平原君は信陵君が味噌屋と博徒と戯れていると勘違いし食客からの信頼を失ったのです
信陵君は、大賢者が博徒と味噌屋になってしまっていると知っていたので、交流していたのですが、平原君は本質が見えませんでした。
平原君からの侮辱で腹が立った信陵君が、趙を出る準備をしていたため、平原君は去らせないように、深く詫びたのです。
そして信陵君の方が、食客の本質を理解していると広まり、平原君の元にいた食客の多くが、信陵君に付きました。
ちなみに平原君は、長平の戦いの大敗北の原因を作り出した人物でもあるので、戦国四君の中でもあまり有能ではない方でしょう。
信陵君魏無忌は、賢者であれば味噌屋や博徒とも関わるほど、食客を大事にしていましたが、平原君趙勝(へいげんくんちょうしょう)は体面を重視したくさんの食客に見限られたのです。
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前漢の初代皇帝高祖劉邦は戦国四君の信陵君を慕っていたため墓を整備したのです
信陵君は、楚漢戦争に勝利した劉邦からも敬われていたので、最後を迎えた後も、皆から大切にされました。
そして、劉邦の部下には張耳もおり、信陵君の食客だったとも伝わっているのです。
また張耳は、陳余と刎頸の交わりと呼べるほどの仲でしたが、窮地を助けてもらえなかったため、険悪となりました。
劉邦の配下には、大将軍の国士無双韓信もおり、背水の陣で張耳と共に陳余を最期に追い込んだのです。
陳余は張耳を嫌い、韓信を侮っていたため、大軍を有していながら大敗しました。
信陵君魏無忌は、韓信(かんしん)との背水の陣で有名な張耳(ちょうじ)を食客としていただけでなく、前漢の初代皇帝劉邦からも敬意を持たれていたため、墓守が提供されていたのです。
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劉邦の部下の魏無知は信陵君の子孫であり軍師陳平を称賛していました
信陵君の孫の魏無知は、陳平が奇才だと気付いていたため、劉邦に推挙したのですが初めは非難されたのです。
陳平は周勃から、兄嫁と不適切な関係があるだけでなく、賄賂も得ていると報告されていました。
ですが魏無知は、楚漢戦争に勝つためには、道徳的に優秀な人物ではなく陳平のような鬼才が重要である、と主張したのです。
そして後に陳平は、冒頓単于と呂氏の乱からも前漢帝国を保護したため、魏無知は人を見る目を有していたと言えるでしょう。
信陵君魏無忌の末裔の魏無知は、劉邦(りゅうほう)に陳平(ちんぺい)を推薦することで、当初は批判されましたが、陳平が前漢の大難で活躍したので、魏無知の見識は確かだったのです。
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合従軍で秦軍を圧倒した際に信陵君は魏公子兵法を獲得し史記の司馬遷も高評価でした
信陵君は、食客集めだけでなく、秦との戦いでも勝利したため、魏公子兵法を得たのです。
ですが、秦に本当に勝てるほどの実力は無く、秦が得意とする讒言戦術に惑わされた安釐王から疑われ、最後を迎えました。
そして史記の司馬遷も、信陵君が一見卑しく見える者たちとも交流し、食客を大事にした点を非常に称賛したのです。
ただ、信陵君が安釐王から疎んじられたのは、晋鄙を無理に斬ったことも要因でした。
信陵君魏無忌は、史記の司馬遷(しばせん)からも食客への厚遇を評価され、魏公子兵法を取得するほど戦にも強かったのですが、晋鄙(しんぴ)に最後を与えたことが、後々まで尾を引いてしまったのです。
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まとめ:戦国四君の信陵君魏無忌(しんりょうくんぎむき)の人となりと三国志と史記の劉邦故事
信陵君が、戦国四君としてどれくらい秦に抵抗したかを、解説してきました。最終的に秦が天下統一するわけですが、信陵君たちの存在は、大きな障壁だったのです。
食客選びに成功した信陵君は、侯嬴から平原君を救助する策を得られたことも、説明してきました。門番の中からも奇才を発掘した信陵君は、三国志の曹操と張り合える人材収集家でしょう。
そして、強大化した秦を合従軍で打ち負かした信陵君は、史記の司馬遷から感嘆されていたことも、述べてきました。
司馬遷は史記で偉人を批判してもいるので、信陵君がどれくらい有能か、見えるのではないでしょうか。
信陵君魏無忌は、兄の安釐王から畏怖され、前漢の初代皇帝高祖劉邦から尊敬されるレベルの人となりを、持っていたのです。