三国志で勇敢でイケメンな将軍と言えば、趙雲でしょう。
趙雲の妻は孫軟児とされており、趙雲にちょっと、いたずらをしてしまったのです。なんと、大惨事になってしまい・・・
そして、趙雲の他の妻候補も説明していきます。趙雲はイケメン武人なだけでなく、道理にも明るい武将だったのです。
また、趙雲は五虎大将軍だったわけですが、他の4人がどのような最期だったかも記載していきます。趙雲の最後の方が、マシかもしれません。
趙雲は本人自体が武勇に長けているのですが、なんと凄い剣もゲットしたのです。乱世の奸雄の曹操が持っていた剣ですが、どのようにして獲得したのでしょうか。
三國志の趙雲の最後を詳しく解説していきます!
⇒公孫瓚!白馬将軍、配下能力、易京、劉虞、袁紹呂布、劉備趙雲も解説
目次
⇒きょうい三国志!鍾会、鄧艾、趙雲一騎打ち、魏延、劉禅、最期も解説
妻が死因!小さい針で最後を迎えた趙雲
三国志の趙雲は、妻から小さい針で試しに刺されたので、どんどん血が出て、そのまま最期が来たとされています。
- 趙雲の妻となるべきだった樊氏
- 三国志蜀漢の五虎大将軍の死亡順を解説します
勇将な趙雲も、女性や妻には弱いという意味なのでしょうか。
そして趙雲は、高身長で立派な偉丈夫なイケメンと伝わっています。イケメンで武勇に優れているなら、皆が結婚したがっていたのではないでしょうか。
三国志のイケメンは他にも、荀彧(じゅんいく)や陸遜(りくそん)や周瑜(しゅうゆ)がいます。
ちなみに、周瑜の妻は美人な小喬です。周瑜は、自分がイケメンなだけでなく、妻も外見が優れていたわけです。
趙雲は、妻との戯れで針で刺され、血を出し過ぎて、最後が訪れたと言われています。
⇒しゅうゆ三国志!軍師周瑜赤壁の戦い、妻小喬、荊州、ろしゅくも解説
趙雲の妻となるべきだった樊氏
三国志の趙雲は荊州攻めを成功させ、桂陽太守趙範を打ち負かし、趙範の兄の妻との結婚をすすめられたのです。
趙範(ちょうはん)の兄の妻樊氏は、美貌で評判なので、悪い縁談ではありませんでした。
ですが趙雲は、趙範とすでに義兄弟となっていたため、自らの兄の妻と結婚するのは・・・と断りました。
それでも婚姻をおすすめする人がいたので、趙雲は、趙範がどのような武将かハッキリしていないため、あまり信頼するのは危険と述べたのです。
趙範は後に、劉備の元からどこかに行ってしまいました。趙雲は、先見の明ある賢い武人でもあるのです。
趙雲は、外見だけでなく心もイケメンな武将なので、結婚でも道徳を守り通しました。
⇒三国志りくそん!陸遜最後、劉備夷陵の戦い、諸葛亮、子孫陸抗も解説
三国志蜀漢の五虎大将軍の死亡順を解説します
三国志の五虎大将軍は、最初は関羽雲長、次に張飛翼徳、三番目に黄忠漢升、四番目に馬超孟起、五番目に趙雲子龍の順に、最期が訪れたとされています。
関羽は、魏に大軍で攻め入り善戦したのですが、拠点の荊州を呉軍にかすめ取られ、打ち取られたのです。
張飛は、関羽の復讐戦に趣く予定が、部下に苛烈な対応をし過ぎてやり返され、最後が来ました。
黄忠は、劉備玄徳と共に、関羽と張飛の仇討ち戦に挑み、逆に攻撃を受けてしまい、そのまま亡くなったのです。
馬超は、蜀漢の辺境を守備してにらみを利かせながら、最後となりました。
趙雲たち五虎大将軍が、相次いで亡くなっていく中で、劉備が築いてきた蜀漢帝国も傾いていったのです。
⇒関羽最後!雲長首、言葉、像、強さ身長、娘妻、張飛死因、曹操も解説
虎威将軍趙雲はどんな人?性格は?劉備が高評価
三国志の趙雲は、肝の据わった豪胆なイケメン武将として、劉備に評価されていました。
劉備陣営の武将である弓の名手黄忠が、戦からなかなか戻らないので、趙雲は少人数で探しに行ったのです。
すると、趙雲は曹操軍に出くわしたため、ちょっと突っついて退却し、まるで作戦があるかのうように装いました。
実際はあまり軍勢がいないので、劉備は趙雲を胆力たっぷりな武人と称したのです。
また劉備陣営の中では、趙雲のことを虎威将軍と呼ぶようになりました。
そして、兵法三十六計に、強力な軍勢がいないにも関わらず、さも万全の防備であるかのように見せる、空城の計がありますが、この計略が利用されたものでしょう。
趙雲は、味方の武将を助けるために、少ない人数にも関わらず、巧みな用兵で曹操軍を翻弄し、劉備から褒められました。
⇒三国志劉備玄徳の性格!魅力的な人柄、カリスマ性、エピソードの話
趙雲は長坂の戦いで劉備の息子の阿斗を助けたと言われています
三国志の趙雲は、大軍の曹操たちの中に取り残された阿斗をわざわざ救出に戻ったのです。
この時に趙雲が、戦死したり阿斗が最期だったりしたら、蜀漢の存続も危うかったかもしれません。
そして、劉備軍の張飛が橋のあたりで、凄まじい威圧感なオーラで、曹操軍を圧倒したとされています。
趙雲が阿斗を確保出来たのは、張飛が一騎当千の猛将だった面も大きいでしょう。
ちなみに、阿斗とは、後の蜀漢第二代皇帝の劉禅のことです。
劉禅は劉備と異なり、あまり人徳がなく、有能な武将もそこまで集まらなかったため、三国志の乱世の中で、魏に滅ぼされていきます。
趙雲は、劉備の子供で後継者の阿斗(あと)を激戦の中、無事に連れて帰りました。
⇒劉備の息子は無能?どんな人?名前は劉禅アト、他の義理の子供も解説
趙雲は伝説の剣を持っていたという逸話もあります
三国志の趙雲は、長坂の戦いで敵将を打ち取り、青釭の剣を獲得したと言われています。
青釭の剣は元々は曹操の持ち物だったのですが、実はもうひとつ剣が存在していました。
倚天の剣という名前です。
そして、曹操は他にも七星宝刀も保有していました。曹操は七星宝刀で専横な董卓を斬るつもりでしたが、察知されてしまったのです。
董卓にあげるふりをして誤魔化して、曹操は逃走しました。
また、趙雲の主君の劉備も、宝剣である雌雄一対の剣を保有していたのです。英雄は、凄い剣を持ってこそ、英雄になれるのでしょうか。
趙雲は、長坂の戦いで死中に活を見出し、宝剣を身に付け更に飛躍しました。
⇒曹操のすごさ!どんな人?性格、魅力、曹丕、劉備、名言、死因も解説
趙雲の強さに似ていた文鴦と子孫たち
三国志の趙雲の強さに匹敵すると評価されていたのが、文鴦なのです。
文鴦は張飛にも似ていて、言動に凄い迫力があり、敵がおののくほどでした。
文鴦は、趙雲や張飛に近しいわけですから、蜀漢に仕えるのが最適だったかもしれません。
それに文鴦は、魏に反抗する反乱に、2度も参加しています。やはり、元々蜀漢に味方すべき人材だったのでは?と、言わざるを得ないでしょう。
そして趙雲には、子孫として趙統(ちょうとう)と趙広(ちょうこう)がいました。
趙統は、趙雲が亡くなった報告を蜀漢朝廷に行う役があったのです。
趙広は蜀漢の姜維と共に善戦しましたが、健闘むなしく最後を迎えました。
趙雲の息子には、趙統と趙広がおり、似ている武将として文鴦(ぶんおう)もいたのです。
⇒三国志張飛翼徳!能力最強、長坂の戦い、最後、娘、関羽、劉備も解説
まとめ:三国志の趙雲子龍(ちょううんしりゅう)イケメン虎威将軍の最期と死因
三國志の胆力ある虎威将軍趙雲の最後を解説してきました。凄い武人も最期は、意外とあっけないものだったのです。
趙雲は、少人数にも関わらず、曹操軍を惑わしたことも述べました。趙雲クラスになると、味方の人数は関係ないのでしょう。
そして長坂の戦いで張飛と共に、劉備の子供の阿斗を守ったことも説明しました。阿斗も、劉備玄徳のように張飛や趙雲な武将を集める器量があれば・・・
また、趙雲は長坂の戦いで、素晴らしい剣と出会ったことも記載しました。困難な状況を潜り抜けると、それ相応の良いことが獲得出来るのでしょう。
他にも、趙雲な強さと言われていた文鴦も書きました。そもそも趙雲がずば抜けた強さだからこそ、誰かを高評価する際に出て来るのでしょう。
勇敢でイケメンな将軍が気になる人は、趙雲もおすすめします。