三国志かんこう!関興逸話、死因、張苞、関羽青龍偃月刀、周倉も解説

三国志の劉備の義兄弟関羽の息子が、関興です。

関興は、有能な馬良の後任になれるほど、好印象でした。馬良は白眉と評価され、関興の父関羽とも関係の深い人物だったのです。

そして関興は、関羽の青龍偃月刀を使いこなした武将、としても知られています。関羽の強さの秘訣青龍偃月刀は、息子の関興に何をもたらしたのでしょうか。

また、関羽の息子関興には、義兄弟の張苞がいたことも説明していきます。張苞は、猛将張飛の子供なので、お似合いの義兄弟と言えるでしょう。

他にも、関興の最後を軍師諸葛亮が、かなり悲しんだことも記載していきます。諸葛亮の北伐は、関興の死で、更に無理に近付いてしまったのでしょう。

三國志の関興を詳しく解説していきます!

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武神関羽の息子関興は白眉馬良クラスの能力を秘めていました

三国志の関興は、街亭の戦いで有名な馬謖の兄弟馬良の後任、とされたほどの武将です。

馬良は、馬氏の五常白眉最も良し、と評価されたほどの逸材でした。

そして白眉馬良は、関興の父関羽が樊城の戦いの弓の傷を治療する際に、囲碁の相手を務めたとされています。

関興は、武神関羽の後継者であると同時に、白眉馬良の能力を兼ね備えた人物だったのでしょうか。

また、白眉馬良は、関興の父関羽の復讐戦の夷陵の戦いで、陣形の誤りにいち早く気付き、諸葛亮に対策を求めた人材でもあるのです。

関羽の子供の関興は、馬氏の五常白眉最も良しな馬良季常(ばりょうきじょう)の後任、とされるほど優れた能力を持っていました。

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劉備の夷陵の戦いで父関羽の仇討ちを行った関興は青龍偃月刀を取り戻したのです

三国志の関興は、義兄弟関羽の復讐を果たそうとする、劉備の夷陵の戦いに従軍し、関羽愛用の青龍偃月刀を確保しました。

関興の父関羽は、美髯公と呼ばれていただけでなく、青龍偃月刀を愛用していたことでも有名だったのです。

そして関羽は、馬中に捕えられたので、赤兎馬と青龍偃月刀を奪われてしまっていました。

息子の関興は、敵討ちを行い、関羽愛用の青龍偃月刀を再び獲得することに成功したのです。

ちなみに、関羽の愛馬赤兎馬は、持ち主が馬中になった途端食べなくなり、そのまま最期が来たとされています。

武神関羽の敵討ちの夷陵の戦いで、子供の関興は、父の愛用武器青龍偃月刀を取り戻せました。

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父の武神関羽が樊城の戦いで名将于禁に水攻めで勝利したことを劉備に報告するために戦線を離れていた関興

三国志の関興は、父親の関羽が樊城の戦いで、歴戦の勇将于禁を降伏させ猛将龐徳を斬った勝利を、報告しに戻っていました。

関羽はかなり優勢だったのですが、同盟者であるはずの呉の孫権を、侮る対応を繰り返していたのです。

呉の孫権は、部下の呂蒙に関羽の本拠地荊州を攻めさせ、関羽を捕縛しました。

ちなみに、呂蒙の後任に陸遜がいたのですが、関羽を安心させるために、わざと下手に出た手紙をあげていたのです。

関羽は、樊城の戦いで曹仁を包囲し龐徳令明(ほうとくれいめい)を討ち、于禁文則(うきんぶんそく)まで軍門に降らせたことを、息子の関興は報告していたので、関羽と共に最後を迎えませんでした。

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かつての関羽と張飛の関係のように関興と張苞も義兄弟となったのです

三国志の関興は、張飛の息子張苞と義兄弟となることで、関羽と張飛の再来を演出しました。

張飛は、夷陵の戦いの直前に、范彊と張達に厳しくし過ぎて斬られたのです。

そして、関興の義兄弟張苞は、夷陵の戦いで父張飛の仇である張達と范彊に、見事勝利しました。

范彊と張達は、張飛の圧迫から逃れるために、呉に逃げ込みましたが、結局あえない最期だったのです・・・

もしも張達と范彊が、張飛を斬らずに呉に逃げていれば、呉の孫権が匿ってくれた可能性はあるでしょう。

関羽の息子の関興は、張飛益徳(ちょうひえきとく)の子供の張苞(ちょうほう)と義兄弟となり、かつての関羽や張飛のような活躍を見せました。

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関興の兄弟関平は父関羽と共に樊城の戦いの後に処刑され周倉(しゅうそう)と一緒に関帝廟に祀られています

三国志の関興は、樊城の戦いから運良く生き延びられましたが、兄弟の関平と関羽の腹心周倉は、最期が来ました。

関興の父関羽は、関帝廟に祀られており、所縁の深い関平と周倉もいるのです。

そして周倉は、関羽の赤兎馬と同じくらいのスピードで、歩いていたとされています。

周倉が凄いスピードだったのは、足の裏の毛が理由と言われていたのですが、敵の呂蒙に抜かれてしまい、関羽を確保されたと伝わっているのです。

ちなみに、関羽に最後を送った呂蒙も、そのすぐ後に亡くなっています。関羽が、あの世から迎えに来たのでしょうか・・・

関羽の子供関興は、樊城の戦いから生還していましたが、関帝廟に祀られている関羽の側近周倉(しゅうそう)と兄弟の関平(かんぺい)は、最後を迎えました。

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病が死因で最後を迎えた関興は諸葛亮から非常に嘆かれるほど高評価だったのです

三国志の関興は、軍師諸葛亮からも評判だったので、関羽の息子関興の最後は、孔明を非常に落胆させました。

関羽の息子関興は、諸葛亮の北伐の際に、神がかり的な強さを発揮していたのです。

関興は、父関羽愛用の青龍偃月刀を所持しており、関羽が陰ながら息子を助けていたのではないか、と伝わっています。

そして諸葛亮の第一次北伐で、愛弟子の馬謖が、街亭の戦いで大失態を犯してしまったのです。

以後の北伐は、蜀漢を保つために行われたようなもので、関興が活躍しているものの、当初の勢いはあまりありませんでした。

諸葛亮の北伐でも、関羽雲長(かんううんちょう)が再来したかのような活躍を見せた、青龍偃月刀の関興の最期は、孔明をかなり嘆かせたのです。

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夷陵の戦いで陸遜の火攻めが成功したため関興も窮地に陥りましたがふとうから助けられました

三国志の関興は、父関羽の青龍偃月刀と共に、夷陵の戦いで戦果を上げましたが、陸遜の奇策で危なくなり、ふとうが殿を行ったのです。

ふとうは、夷陵の戦いで追い詰められても、呉を批判し続け、最後まで勇敢に戦いました。

そして覇王項羽の祖父項燕は、秦の始皇帝が中国を統一する前に、秦の李信将軍に勝利したのです。

ですが、天下の趨勢は定まっており、楚の項燕は始皇帝の師と言うべき王翦に敗れましたが、項燕はいつの日か楚が秦を滅ぼす、と豪語して最後を迎えました。

後に項燕の孫項羽が、秦を滅ぼしたので、死に際の発言は、必ずしも負け犬の遠吠えとは言えないでしょう。

関羽の息子関興は、夷陵の戦いで活躍しましたが、陸遜が遠大な策略を展開したため、ふとうの殿を残すことで無事に退却出来たのです。

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まとめ:三国志関興安国(かんこうあんこく)の逸話と関羽の青龍偃月刀

三國志の関興は、武神関羽の子供にふさわしい武将、だったことを解説してきました。関羽もあの世で、息子関興の活躍を喜んでいるでしょう。

そして関興が、関羽の大戦果を報告するために、樊城の戦いを離れていて生き残ったことも、説明してきました。

関興は本当は、父関羽と共に戦死したかったのかもしれません。

また、関興の兄弟関平が、関羽と周倉と共に、関帝廟に祀られていることも述べてきました。

関羽は超世の傑曹操から荊王とされ、その後は関帝にまで上り詰めたのです。

他にも、軍師諸葛亮が、関興の能力を高く評価していたことも、書いてきました。関興はやはり、武神関羽の息子だったと言えます。

関羽の青龍偃月刀を継承し、蜀漢の有終の美を見せたのが、関興でしょう。

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