先ず隗より始めよ!故事成語昭王問題、意味2つわかりやすく現代語訳

ことわざの先ず隗より始めよは、昭王が郭隗の献策で、荒廃した燕を復活させるために、楽毅や劇辛を招いた人材登用方法を意味しています。

そして、昭王が用いた郭隗の先ず隗より始めよは、2つの意味で使用されているのです。郭隗の献策から出現した意味なので、故事成語を理解する上でも重要でしょう。

また、郭隗の先ず隗より始めよは、三国志の諸葛亮も一目置いていた楽毅をも、呼び寄せました。楽毅が燕で大将軍を担い続けていれば、秦のみが強国化する事態も防げたかもしれません。

ちなみに、先ず隗より始めよの読み方は、ひらがなでまずかいよりはじめよです。

故事成語の先ず隗より始めよを、原文や白文や書き下し文ではなく現代語訳で、意味やあらすじをわかりやすく解説していきます!

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燕の昭王が採用した郭隗の先ず隗より始めよは自分から着手すべきと身の回りの事柄から取り組むべきの2つの意味で使われているのです

燕の郭隗の先ず隗より始めよは、本来の意味から派生して、身近な内容から対処してみるべきと自分自身でスタートすべきの2つの意味で、利用されています。

郭隗が昭王から、燕を再興出来るほどの人物を集めて欲しい、と述べられたからでしょう。

かつて昭王の父親の燕王噲は、子之の本質を見抜けず、王位を与えてしまい燕を大混乱に陥れました。

ですので、昭王が郭隗を礼遇して再び賢者を集めたのは、燕の賭けとも言える事業だったのではないでしょうか。

故事成語の先ず隗より始めよは、燕の昭王が大賢者を招くために郭隗を厚遇したことから派生し、手近な物事から行うべきと発言者から実行すべきの2つの意味で、使用されています。

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燕の昭王と郭隗の故事成語の先ず隗より始めよの現在使われている意味は述べた者から取り掛かるべきです

燕の昭王が聞き入れた、郭隗の先ず隗より始めよは、発案者から取り組むべきという意味で、現在は使用されています。

郭隗が燕を復興させたい昭王に、自分自身を礼遇すると、有能な者が競って訪れると語ったからでしょう。

ただ、昭王が郭隗を優遇したのは、本当の鬼才を呼び寄せる目的だったため、やみくもに発案者から取り掛かったとしても、燕の昭王のような偉業は、成し遂げられないのではないでしょうか。

故事成語の先ず隗より始めよは、燕の昭王(しょうおう)が郭隗(かくかい)自身を厚遇し楽毅(がくき)を登用したことから、現在は、発言者からチャレンジすべきという意味で使われていることが多いです。

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龐煖を侮り最後を加えられた劇辛も郭隗と昭王の先ず隗より始めよで燕に登用されたのです


燕の昭王が先ず隗より始めよで、集めた人材の中には、龐煖を見誤り大敗北を喫した劇辛もいました。

劇辛は昭王から採用されて以来、燕に仕え続け、燕王喜の代で表舞台に登場したのです。

龐煖は良く知っている仲なので、苦も無く勝てると劇辛は語りましたが、逆に討ち取られてしまいました。

また龐煖は、燕に攻撃している際、秦の桓齮と楊端和と王翦に趙領を確保されてしまったのです。

龐煖も、燕攻略を甘く見ていた、と言えるのではないでしょうか。

故事成語の先ず隗より始めよで、劇辛(げきしん)は昭王から採用されましたが、燕王喜の期待を裏切り、勝利を確信していたはずの龐煖(ほうけん)に大敗したのです。

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郭隗の先ず隗より始めよの本来の意味は大賢者を登用したければあまり賢者とは言えない者から厚遇してみるべきです

燕の昭王が強大な宿敵の斉への仇討ちを望んでいたため、郭隗は、先ずは郭隗自身を優遇することで鬼才を招くべき、と進言しました。

そもそも郭隗は、死馬を大金で購入する者がいれば、良い馬ならそれよりも高値で買われると考え、名馬が上手く確保出来る、と燕の昭王に語ったのです。

良い馬や有能な者を見極める腕前があってこそ、郭隗の先ず隗より始めよは、活きるのでしょう。

また、昭王の息子の恵王に、楽毅の忠誠心を見通す眼があれば、燕は斉を併合出来ていたのではないでしょうか。

故事成語の先ず隗より始めよは、郭隗が死馬で名馬が買える話を燕の昭王に述べ、昭王が大賢者を獲得するために郭隗を礼遇したことが、本来の意味です。

⇒楽毅と諸葛亮!最強評価、三国志孔明、名言、管仲、白起将軍も解説

ことわざの先ず隗より始めよで大国化したはずの燕は昭王と楽毅がいなくなった後は振るわず刺客荊軻の始皇帝嬴政暗殺も上手くいかなったのです


燕は郭隗の先ず隗より始めよで、昭王に楽毅が仕え強国化しましたが、後の燕には、楽毅や昭王クラスの偉人はあまり出現しませんでした。

そして燕の太子丹は、始皇帝嬴政から軽んじられ秦の国力を恐れていたため、刺客の荊軻に嬴政を討たせようとしたのです。

刺客荊軻は、始皇帝嬴政が処罰したがっていた樊於期の首と、燕の豊かな領地の地図を持参し、嬴政暗殺成功直前まではいきました。

ちなみに、前漢の三傑の張良も祖国のために、始皇帝嬴政を暗殺しようとしたことがあります。

故事成語の先ず隗より始めよで、燕は一時的に大国化しましたが、楽毅や昭王に匹敵する人材はなかなか再登場せず、刺客荊軻(けいか)も始皇帝嬴政暗殺未遂で終わったのです。

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三国志の諸葛亮も敬慕していた大将軍楽毅は昭王と郭隗の先ず隗より始めよで燕を訪れました

昭王が、郭隗の先ず隗より始めよを用いたことで、三国志の諸葛亮からも敬われた、楽毅も燕に仕えたのです。

そもそも、昭王が報復しようとしていた斉は当時、西帝の秦と共に東帝を称するほどに強勢でした。

ですので、昭王が郭隗の献策で楽毅を登用していなければ、後に斉に壊滅的な打撃を与えることは、難しかったのではないでしょうか。

また、三国志の諸葛亮は出師の表を、楽毅の考えを参考にして書いた、とも伝わっているのです。

故事成語の先ず隗より始めよで、三国志の諸葛亮孔明(しょかつりょうこうめい)も畏敬の念を抱いていた、楽毅を招いた昭王は、東帝を称するほどの大勢力の斉への敵討ちを、達成しました。

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先ず隗より始めよで厚遇された楽毅は昭王の息子の恵王からは大名声を畏怖されてしまいました


燕の昭王が郭隗の策で招聘した楽毅は、大国斉を滅亡寸前にまで追い詰めましたが、楽毅の声望は危うさも持っていたのです。

昭王と楽毅は深い信頼関係で結ばれており、昭王には楽毅を活用するだけの器量がありました。

しかし恵王は、父親の昭王ほどには楽毅を評価しておらず、楽毅が王に即位しようとしているという、斉の田単の噂を真に受けてしまったのです。

ちなみに田単は、火牛の計も利用し燕軍を撃退しました。

故事成語の先ず隗より始めよで、燕の大将軍となった楽毅は、昭王の宿敵斉に大損害を加えましたが、恵王には危険視されており、田単(でんたん)の謀略も相まって亡命する羽目に陥ったのです。

⇒田単と三国志!火牛の計作戦、史記楽毅最後、斉襄王、軍師能力も解説

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まとめ:先ず隗より始めよ(まずかいよりはじめよ)のあらすじをわかりやすく現代語訳と故事成語の2つの意味と郭隗昭王の問題解説

ことわざの先ず隗より始めよの意味や昭王の使い方を、書き下し文や白文や原文ではなく現代語訳で、あらすじや意味をわかりやすく説明してきました。

壊滅していた燕を再興させるほどの故事成語なので、本質的な意味を把握すれば、大躍進に繋がるでしょう。

そして先ず隗より始めよが、発言者の責任を問う意味へと、現在は変化していることも解説してきました。ことわざ自体が着目され、違う使われ方が増えているのでしょう。

また、楽毅は大成功しましたが、先ず隗より始めよで燕に登用された劇辛は、龐煖に大敗したことも述べてきました。燕の昭王が劇辛を率いていれば、劇辛ももっと活躍出来たのでしょうか。

郭隗の先ず隗より始めよを昭王が重要視したからこそ、名将楽毅が訪れ、斉への逆襲に成功したため、学ぶ意義が大きい故事成語でしょう。

⇒郭隗!先ず隗より始めよ意味、優れている点その後、燕昭王戦国策解説

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