桓齮!史実将軍死亡、かっこよすぎ桓騎最後、かんき楊端和実在も解説

桓齮将軍は、趙に連勝していましたが、知将李牧に最後をもたらされました。

そもそも桓齮は、李牧と勝負する前に、趙軍にかっこよすぎる快勝を見せたのです。李牧が出撃していなければ、桓齮が趙を滅ぼしていたかもしれません。

そして、武安君李牧に死亡させられたはずの桓齮には、樊於期への変名の話も、存在しているのです。樊於期は刺客荊軻に味方した将軍で、荊軻は燕の太子丹に支援されていました。

また史記で司馬遷は、李牧に敗れた桓齮に最後が訪れず、撤退したと述べています。敗走しているなら、樊於期に名前を変更した可能性も上がるでしょう。

ちなみに、桓齮の読み方は、かんきです。

桓齮を詳しく解説していきます!

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武安君李牧は肥下の戦いで桓齮将軍に勝利し死亡させ趙の幽繆王に貢献したのです

桓齮は、当初は幽繆王の趙軍に圧勝していましたが、北方の智将李牧に大敗させられました。

長平の戦いで趙括が、白起に大敗北をしてから、趙は秦に劣勢だったので、肥下の戦いは奇跡的な勝利と言えます。

しかし、李牧が趙で異彩を放つことで、敵の武将たちだけでなく、自国の幽繆王にすら警戒されてしまったのです。

また幽繆王は、李牧を任用していた際は、番吾の戦いでも勝ちを獲得し、中華に威を奮いました。

李牧以外に、信頼出来る将軍が幽繆王の側近にいれば、李牧を重用し続けられたのではないでしょうか。

桓齮将軍は、趙の幽繆王趙遷(ゆうぼくおうちょうせん)の軍勢を圧倒していましたが、匈奴を大征伐した知将の武安君李牧(りぼく)に、敗北するだけでなく死亡させられました。

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桓齮に最後をもたらした武安君李牧は郭開の謀略には大負けしたのです

桓齮は、李牧に死亡させられましたが、李牧は味方のはずの郭開と幽繆王から、最期を加えられました。

李牧がもっと長く健在なら、王翦や李信や蒙恬をも、打ち取っていたのではないでしょうか。

それに、楚には大将軍項燕もおり、秦の内部にも楚王族の昌文君と昌平君がいたのです。

李牧と項燕が提携し、大軍勢で秦を攻撃し、昌平君と叔父の昌文君が決起すれば、秦は崩壊したのではないでしょうか。

ちなみに、昌平君は史実でも項燕に付き、楚王に就任し、秦への最後の抵抗を試みたのです。

桓齮将軍は、趙で何度も大勝利を獲得していたので、桓齮に勝った李牧は過度に畏怖され、郭開(かくかい)と幽繆王から最後が来る結末となりました。

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平陽の戦いで桓齮将軍はかっこよすぎる大勝利を獲得し扈輒にも最後を与えました

桓齮は、幽繆王と扈輒将軍に勝ち、10万人ほどの軍勢を死亡させることに成功したのです。

長平の戦いで白起も、何十万もの趙軍を生き埋めにしたと伝わっているので、桓齮は白起に匹敵する戦果を得た、と言えるでしょう。

ですが、桓齮の趙への大勝ちは、名将武安君李牧出撃を招く結果になってしまい、平陽の戦いでの勝ちは束の間の栄光となったのです。

ちなみに、李牧は戦国四大名将と言われており、廉頗や王翦や白起に匹敵する将軍、とされています。

桓齮将軍は、扈輒(こちょう)に勝つだけでなく趙軍10万人くらいに最期を送ったため、幽繆王が智将の武安君李牧を出陣させる要因も、もたらしました。

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劇辛に勝った龐煖が燕攻略を進めたため守備力が低下した趙を楊端和と桓齮と王翦が攻撃したのです

桓齮と王翦と楊端和は、龐煖が燕に注力している間に、趙を一気に攻略しました。

趙は長平の戦い以来、弱体化していたため、まずは勝ち易い燕から取り掛かったのでしょう。

そして燕には、劇辛大将軍がおり、龐煖を軽んじ死亡させられたのです。

龐煖と劇辛が上手く連携出来ていれば、秦に隙を見せず、桓齮にも勝てたのではないでしょうか。

また、趙の龐煖は胡服騎射の武霊王から、燕の劇辛は先ず隗より始めよの昭王から、評価されていました。

桓齮将軍と楊端和(ようたんわ)と王翦は、劇辛(げきしん)に勝利した龐煖(ほうけん)が、燕攻撃を重視したので、趙を巧みに占領し始皇帝嬴政の覇業を支えたのです。

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桓齮は武安君李牧に死亡させられたのではなく樊於期に変名し刺客荊軻に協力したとも伝わっているのです

桓齮は、肥下の戦いで李牧に最期を与えられましたが、樊於期と名前を改め、生き残っていたとも言われています。

そして樊於期は、荊軻が刺客として始皇帝嬴政に接近するために、自分の首を渡した人物として知られているのです。

樊於期がいなければ、刺客荊軻が、嬴政に肉薄することも難しかったのではないでしょうか。

ただ、荊軻が暗殺寸前で上手くいかなかったので、嬴政は激怒し、燕王喜と太子丹には王賁と李信の猛襲が訪れました。

桓齮将軍は、武安君李牧から最後をもたらされましたが、樊於期(はんおき)と変名し、刺客荊軻(けいか)が始皇帝嬴政に迫る好材料を提供した、とも語られているのです。

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司馬遷の史記には武安君李牧に敗北した桓齮が最後を迎えず敗走したと書かれています

桓齮は、肥下の戦いで大敗しましたが、生き残った、と司馬遷の史記からは読み取れるのです。

ですので、桓齮が樊於期と名を変更した、という考えが出て来るのでしょう。

わざわざ樊於期になるくらいなら、むしろ趙に鞍替えして、李牧と共に秦を攻めるのも一興、だったのではないでしょうか。

そして始皇帝嬴政は、樊於期が軍事改革に刃向かったことで、憎んでいました。

ですので、樊於期は燕に逃れ、嬴政から冷遇され恨んでいた太子丹に、保護してもらったのです。

桓齮将軍は、武安君李牧に負け死亡したのではなく、退却したと司馬遷(しばせん)の史記には記載されているので、樊於期への変名説への補強にも繋がるでしょう。

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趙を滅亡させたのは王翦ですが桓齮が宜安でも趙に大勝したおかげではないでしょうか

桓齮は、平陽の戦いで趙の大軍に最期をあげた勢いで、宜安でも大奮闘したのです。

ですので、力を出し切ってしまい、武安君李牧に死亡させられたとも、考えられるでしょう。

そして王翦大将軍は、確かに幽繆王を囚え、趙を壊滅させたのですが、幽繆王の兄の嘉が代王となったのです。

その代王嘉は、王翦の息子の王賁から確保され、代も滅ぼされました。

ちなみに、王賁の子供の王離は、西楚の覇王項羽に大敗し、秦軍壊滅の要因となってしまったのです。

桓齮将軍が、宜安と平陽の戦いで大勝利を収めたので、王翦(おうせん)が趙を滅ぼせ、王賁(おうほん)が代を滅亡させることが出来たのではないでしょうか。

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まとめ:桓齮(かんき)はかっこよすぎと桓騎実在最後と将軍死亡と史実楊端和

桓齮が、かっこよすぎな将軍でありながら、李牧に敗北したかを解説してきました。李牧は、燕の楽毅大将軍のように、趙の救国の英雄だったのでしょう。

そして李牧は、桓齮に勝てるほどの軍略を有していながら、幽繆王と郭開から最期が来たことも説明してきました。李牧ほどの知将は、ふさわしい君主と同僚を得ることも、大事なのでしょう。

また、王翦と楊端和と桓齮が、闘将龐煖が燕に進軍している状況を、巧妙に利用したことも述べてきました。龐煖は油断した劇辛には勝てましたが、桓齮らの実力者には対処しきれなかったのです。

桓齮は、趙で大活躍していながら武安君李牧に最後をもたらされたので、死亡していなかったり樊於期に変名したりな話が、興味深い将軍でしょう。

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