三国志の遼東地域で、虎視眈々と天下をうかがっていたのが公孫淵です。
大国がひしめく中国の近くで、公孫淵が生き残れたのは、卓越した外交能力があったからです。どのような凄い外交力なのでしょうか。
そして、公孫淵の過ぎた野心にいち早く気付いていたのが、公孫晃です。公孫淵を批判していたわけですから、公孫晃だけはセーフなのでしょうか。
魏と呉を翻弄していた公孫淵にも、最後が迫って来たのです。あの伝説的な軍師司馬懿が、公孫淵たちに行った所業とは?
古代日本の女王卑弥呼も、公孫氏とつながりがあるのです。昔の日本に興味がある人も、要チェックでしょう。
また、呉の君主孫権は、魏に勝つためにも公孫淵を利用したがっていました。公孫淵はどちらに付きどうするのでしょうか。
三國志の公孫淵を詳しく解説していきます!
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目次
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魏と呉を上手く操る公孫淵の二重外交能力
三国志の公孫淵は、強大な魏の曹叡と呉の孫権の両方に、良い顔をすることで、生き残りを画策しました。
公孫淵は、魏に付くかと思えば呉に加担し、魏と呉のどちらからも称号を獲得したのです。
両天秤で上手くいくかと思ったら、とうとう魏から強く服属を求められました。
そして公孫淵は、魏の毌丘倹から攻められるも勝利したため、燕王を名乗ったのです。
ちなみに、朝鮮半島の高句麗は魏に取り入り勢力を伸張させるために、公孫淵軍と戦っています。
公孫淵が何とか高句麗を味方としていれば、遼東独立王国を維持出来たでしょう。
魏と呉が公孫淵を味方としたい気持ちに付け込んで、複雑な外交を展開しました。
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野心家な公孫淵を朝廷に批判した公孫晃
三国志の公孫晃は、公孫恭の後継者でしたが、公孫淵が簒奪したため、魏王朝に処罰を求めました。
ですが、魏国で公孫淵は実力者と考えられていたので、処罰は聞き流されてしまったのです。
そして、公孫晃が指摘していた通り、公孫淵の野心は留まるところを知らず、魏とも戦い始めました。
ですが衆寡敵せず、魏の司馬懿の自在の軍略の前に、遼東の公孫氏は滅亡に陥ったのです。
また、公孫晃は魏に忠実で、公孫淵を批判していたため、処刑されない可能性もありました。
ですが、遼東公孫氏一族を無くすべきという意見が大きく、公孫晃にも最後が訪れました。
公孫晃(こうそんこう)は、魏に敵対した公孫淵を批判していましたが、魏から結局最期をもたらされたのです。
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公孫淵の乱で現れた司馬懿の残虐性
三国志の公孫淵が、魏に反旗を翻したため、司馬懿は攻撃して勝利し、虐殺で反乱を鎮圧しました。
公孫淵は、兵数はたくさん集めましたが、兵糧の確保が上手くいかなかったのです。
司馬懿は、しばらく待ち公孫淵を兵糧不足に追い込んだ後、一気に公孫淵たちを打ち取りました。
そして司馬懿は、天才諸葛亮孔明と対抗するほどの偉人ですが、公孫淵滅亡時の残虐さは、非常に批判されているのです。
司馬一族があまり繁栄しなかったのは、司馬懿がこの時に、横暴を働いたからと言われることもあります。
公孫淵を打ち負かした司馬懿仲達は、遼東地域の反乱分子を根絶やしにするために、残酷な方法を取りました。
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袁紹の息子の袁煕と袁尚が逃げ込んで来たので公孫康は保身のために最期を与えました
三国志公孫淵の父親公孫康の元に、曹操に敗北した袁煕と袁尚が訪れたため、最後をもたらし、曹操に貢献しました。
- 日本の邪馬台国の女王卑弥呼は遼東公孫氏と交流していました
- 孫権は公孫淵を燕王とし魏に対抗しました
- 白馬将軍公孫瓚と真逆な思考の末路
曹操は無理に公孫康を攻めないことで、袁煕(えんき)と袁尚(えんしょう)が公孫康と連携しないように、暗に働きかけたのです。
もしも公孫康が、袁兄弟や異民族と組んで曹操と対抗した場合、果たして曹操が勝てたでしょうか。
公孫康か袁兄弟の器が、もっと大きく志が高ければ・・・
そして公孫康は、朝鮮半島付近にも勢力を拡大し、帯方郡を置きました。一気に朝鮮半島を併合しておけば、後に公孫淵が魏ともっと健闘出来たのではないでしょうか。
公孫淵の父の公孫康(こうそんこう)は、曹操を畏怖していたので、袁兄弟を打ち取り、曹操に首を届けました。
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日本の邪馬台国の女王卑弥呼は遼東公孫氏と交流していました
三国志の遼東の公孫氏は、中国の魏と東方諸国の間にいたので、ある種東方統括官でもありました。
司馬懿によって公孫淵が滅亡したため、正式に邪馬台国の卑弥呼が、魏と交流可能となったのです。
卑弥呼がもしも公孫淵と深い関係にあったら、危なかったでしょう。
その時の勢いに惑わさずに、本物を見極めて下さい。
公孫淵は、邪馬台国などの周辺の異民族をもっとがっちり握っておけば、実力者司馬懿と言えども、易々とは公孫淵を攻略出来なかったでしょう。
ちなみに、邪馬台国が朝鮮半島にあったという説も存在しています。
邪馬台国の卑弥呼(ひみこ)は、公孫氏が遼東にいたため、一時的に公孫氏と外交関係を結んでいました。
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孫権は公孫淵を燕王とし魏に対抗しました
三国志の公孫淵は、呉の主君孫権から燕王を与えられ、連携を深めました。
ですが、公孫淵は魏と提携を深めるために、呉からの使者を斬り、魏から褒美をもらったのです。
公孫淵の思惑通りに運ぶかと思ったら、魏からより一層奉仕することを求められ、戦となりました。
魏の軍勢を蹴散らすことが出来ましたが、今度は魏の名軍師司馬懿が本腰を入れて、攻めて来たのです。
かつて呉を裏切ったにも関わらず、公孫淵は呉に援軍を求めました。呉の孫権は利があるため、援助を決定しましたが、公孫淵は滅亡したのです。
呉の孫権は、公孫淵を厚遇しましたが裏切られ、公孫淵も魏から最後を与えられました。
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白馬将軍公孫瓚と真逆な思考の末路
三国志の公孫瓚は、選りすぐりの最強な白馬隊を率いていたため、白馬長吏と呼ばれていました。
公孫瓚は、優秀な人材ではなく、自分の恩義を深く感じてくれるその辺の人を重用していたのです。
確かに、公孫瓚に感謝する人材であふれたのですが、有能な者たちが敵に付いて、公孫瓚を攻撃しました。
一面的に良い事は、結果的な大悪となることもあるのでしょう。
そして、公孫瓚は本拠を何重もの防御で固めていました。正面攻撃からは非常に強いのですが、敵の袁紹は地下道を作り出して、公孫瓚の城を攻略したのです。
公孫瓚には、弟の公孫越と息子の公孫続もいます。
ちなみに、公孫瓚は公孫淵とは、血縁的には深いつながりは無いのです。
公孫瓚伯珪(こうそんさんはくけい)は、強力な白馬軍団を統率していましたが、人心掌握に失敗し、最後となっていきました。
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まとめ:三国志の公孫淵(こうそんえん)は乱を起こした遼東の燕王
遼東の燕王公孫淵を解説してきました。中国の中央あたりにいる人材が、あまりにも有能だったことも、滅亡してしまった理由のひとつでしょう。
危険な人物の周りにいたせいで、残念な最後となった、公孫晃も記載しました。もっと早く魏に亡命しておけば、公孫晃は大丈夫だったのでは?
司馬懿仲達ほどの大人物も、対処を誤ることもあるのでしょう。遼東あたりの所業は、司馬懿の子孫にも暗い闇を創り出してしまったのです。
公孫淵と邪馬台国卑弥呼も関係があったのです。公孫淵がもっと上手くやっていたら、邪馬台国の未来も変化したのでしょうか。
巧妙な外交能力を学びたい人は、公孫淵を参考にしてみても良いでしょう。